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学べる!ふるさと唐津学!

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歴史民俗資料館(れきしみんぞくしりょうかん)
歴史民俗資料館(れきしみんぞくしりょうかん)建物(たてもの)は、なんですか。
西唐津(にしからつ)海岸通(かいがんどお)りにある歴史民俗資料館(れきしみんぞくしりょうかん)は、旧三菱合資会社唐津支店(きゅうみつびしごうしがいしゃからつしてん)という建物(たてもの)で、明治(めいじ)41(ねん)()てられました。旧三菱合資会社(きゅうみつびしごうしがいしゃ)港湾事務所(こうわんじむしょ)でした。
設計(せっけい)三菱丸(みつびしまる)内建築事務所(うちけんちくじむしょ)施行工事(せこうこうじ)神戸三菱建築事務所(こうべみつびしけんちくじむしょ)でした。
歴史民俗資料館
歴史民俗資料館
(れきしみんぞくしりょうかん)

当時(とうじ)三菱(みつびし)建築(けんちく)顧問(こもん)には、唐津出身(からつしゅっしん)曽禰達蔵(そねたつぞう)がいて、曽禰(そね)監修指導(かんしゅうしどう)があったものと(かんが)えられます。建物(たてもの)木造洋風二階建(もくぞうようふうにかいだて)で、入母屋造(いりもやづく)りの大屋根(おおやね)に、正面(しょうめん)大破風(おおはふ)両側(りょうがわ)千鳥破風(ちどりはふ)をもつもので、(うら)(いち)二階(にかい)にベランダ(まわ)し、()()(まど)のある洒落(しゃれ)建物(たてもの)です。昭和(しょうわ)55(ねん)佐賀県(さがけん)重要文化財(じゅうようぶんかざい)指定(してい)されています。
建物(たてもの)は、石炭輸送(せきたんゆそう)基地(きち)としてのものだそうですが、当時(とうじ)石炭産業(せきたんさんぎょう)とは、 どのようなものだったのでしょうか。
唐津地方(からつちほう)江戸時代(えどじだい)中頃(なかごろ)に、石炭(せきたん)発見(はっけん)され、燃料用(ねんりょうよう)採掘(さいくつ)がはじまりました。幕末頃(ばくまつごろ)には、藩営事業(はんえいじぎょう)として重要(じゅうよう)なものとなり、また、(ほか)(はん)薩摩(さつま)佐賀(さが)久留米等(くるめなど))に採掘権(さいくつけん)()していました。蒸気機関(じょうききかん)発達(はったつ)とともに、石炭(せきたん)はエネルギーの産業(さんぎょう)花形(はながた)となり、昭和(しょうわ)三十年代(さんじゅうねんだい)まで、唐津地方(からつちほう)主要産業(しゅようさんぎょう)となりました。
石炭積出基地
石炭積出基地
(せきたんつみだしきち)


当初(とうしょ)松浦川(まつうらがわ)川船(かわぶね)で、()()していたのですが、鉄道(てつどう)敷設(ふせつ)大型船(おおがたぶね)寄港(きこう)のために、西唐津港(にしからつこう)開発(かいはつ)されるとともに、この建物(たてもの)場所(ばしょ)石炭出荷(せきたんしゅっか)中心地(ちゅうしんち)となったのです。
建物(たてもの)関係(かんけい)した、曽禰達蔵(そねたつぞう)とはどんな(ひと)なのですか。
曽禰達蔵(そねたつぞう)は、唐津藩(からつはん)藩士(はんし)で、江戸唐津藩邸(えどからつはんてい)()まれました。唐津藩(からつはん)幕末(ばくまつ)創設(そうせつ)された洋学校耐恒寮(ようがっこう たいこうりょう)(たいこうりょう)で(まな)び、上京(じょうきょう)して工学寮(こうがくりょう)(のち)東京大学建築学科(とうきょうだいがくけんちくがっか))でジョサイア・コンドルの指導(しどう)()けます。
曽禰達蔵
曽禰達蔵
(そねたつぞう)
その()近代日本建築(きんだいにほんけんちく)草創期(そうそうき)をリードする建築家(けんちくか)として活躍(かつやく)します。(おお)くの建物設計建築(たてものせっけいけんちく)従事(じゅうじ)し、三菱丸(みつびしまる)(うち)のビル(がい)建設(けんせつ)にもかかわりました。同期(どうき)には、辰野金吾(たつのきんご)がいて、唐津藩出身(からつはんしゅっしん)英俊(えいしゅん)が、日本(にほん)建築(けんちく)歴史(れきし)(きず)いたのです。
建物(たてもの)のある西唐津港(にしからつこう)は、唐津(からつ)(みなと)としてどのような歴史(れきし)をもっているのですか。
唐津港(からつこう)発展(はってん)は、石炭産業(せきたんさんぎょう)とともに(すす)んでいきました。当初(とうしょ)松浦川(まつうらがわ)(河川(かせん)利用(りよう)した、石炭輸送(せきたんゆそう)は、河口(かこう)水深(すいしん)(あさ)いこと、川船(かわぶね)では(りょう)(かぎ)られることから、大型船(おおがたせん)寄港(きこう)できる(みなと)開発(かいはつ)(もと)められていました。
石炭積出に群る船団
石炭積出しに群る船団
(せきたんつみだしにむらがる
せんだん)
そこで、妙見浦(みょうけんうら)()ばれていた(ちい)さな漁村(ぎょそん)であった西唐津港(にしからつこう)が、開発(かいはつ)場所(ばしょ)として注目(ちゅうもく)され、鉄道敷設(てつどうふせつ)港湾(こうわん)浚渫等(しゅんせつなど)によって、明治中頃(めいじなかごろ)から唐津(からつ)(みなと)中心基地(ちゅうしんきち)となっていきます。石炭(せきたん)は、日本(にほん)だけではなく、上海(しゃんはい)香港等(ほんこんなど)のアジア地域(ちいき)にも出荷(しゅっか)され、大正三年(たいしょうさんねん)のパナマ運河(うんが)開通(かいつう)によって、西唐津港(にしからつこう)への寄港船(きこうせん)増加(ぞうか)し、活況(かっきょう)(てい)することになりました。
近代遺産(きんだいいさん)という言葉(ことば)がありますが、近代(きんだい)洋風(ようふう)建物(たてもの)にはどのようなものが唐津(からつ)にありますか。
近代遺産(きんだいいさん)とか、近代化遺産(きんだいかいさん)とか()ばれるものは、幕末明治(ばくまつめいじ)から戦前(せんぜん)まで、日本(にほん)近代化(きんだいか)西洋化(せいようか))に(かか)わった、経済(けいざい)産業等(さんぎょうなど)様々(さまざま)歴史遺産(れきしいさん)()して()います。唐津(からつ)には、石炭産業(せきたんさんぎょう)活性化(かっせいか)にともない、産業経済(さんぎょうけいざい)活性期(かっせいき)(おとず)れました。
その時代(じだい)(つく)られた建物(たてもの)(のこ)されています。当時銀行(とうじ ぎんこう)(として()てられた旧唐津銀行本店(きゅうからつぎんこうほんてん)もその(ひと)つです。旧高取邸(きゅうたかとりてい)和風(わふう)邸宅遺構(ていたくいこう)ですが、石炭産業(せきたんさんぎょう)一体(いったい)になったものです。その(ほか)にも、煉瓦造(れんがづくり)唐津鉄工所(からつてっこうしょ)発動所(はつどうしょ)炭鉱遺構(たんこういこう)鉄橋(てっきょう)、トンネル(など)(のこ)されています。