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学べる!ふるさと唐津学!

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旧高取邸関係(きゅうたかとりていかんけい)
旧高取邸(きゅうたかとりてい)(おお)きなお屋敷(やしき)ですが、いったい(だれ)建物(たてもの)なのですか。

旧高取邸(きゅうたかとりてい)は、明治時代(めいじじだい)昭和初期(しょうわしょき)石炭開発(せきたんかいはつ)(ざい)()した高取伊好(たかとりこれよし)(()てた建物(たてもの)です。高取氏(たかとりし)は、唐津(からつ)のお(となり)多久藩(たくはん)出身(しゅっしん)(ひと)で、もともと、多久藩(たくはん)儒学者(じゅがくしゃ)(いえ)()まれました。学問(がくもん)(さか)んな多久(たく)当時(とうじ)武士(ぶし)としての、(たか)教養(きょうよう)()った(ひと)でした。

旧高取邸
旧高取邸(きゅうたかとりてい)
江戸時代(えどじだい)中頃(なかごろ)から開発(かいはつ)され、幕末(ばくまつ)には蒸気機関(じょうききかん)燃料(ねんりょう)として需要(じゅよう)(たか)くなった石炭産業(せきたんさんぎょう)()()き、のちに石炭王(せきたんおう)()ばれるようになります。明治(めいじ)38(ねん)に、石炭(せきたん)出荷港(しゅっかこう)のあった唐津(からつ)邸宅(ていたく)(かま)え、居住(きょじゅう)だけではなく、お客様(きゃくさま)接待(せったい)する大広間(おおひろま)をもつ建物(たてもの)(つく)りました。当時(とうじ)のこうした建物(たてもの)(こと)を、近代和風建築物(きんだいわふうけんちくぶつ)()び、伝統的(でんとうてき)数寄屋造(すきやづくり)洋風建築(ようふうけんちく)()()れた歴史的(れきしてき)重要(じゅうよう)遺構(いこう)として、(くに)重要文化財(じゅうようぶんかざい)になっています。
旧高取邸(きゅうたかとりてい)魅力(みりょく)、どんなところが素晴(すば)らしいのですか。
旧高取邸(きゅうたかとりてい)には、国指定(くにしてい)になった、いくつかの重要(じゅうよう)要素(ようそ)があります。ひとつは、大規模(だいきぼ)当時(とうじ)建物(たてもの)が、非常(ひじょう)保存(ほぞん)よく(のこ)っていること。(つぎ)に、邸宅(ていたく)大広間(おおひろま)だけではなく、洋間(ようま)土蔵(どぞう)湯殿(ゆどの)倉庫(そうこ)などの当時(とうじ)生活様式(せいかつようしき)()ることができる建物(たてもの)(のこ)されていること。
洋間
洋間(ようま)
また、建物(たてもの)杉戸(すぎと)欄間(らんま)などの建具(たてぐ)意匠(いしょう)がすぐれていること。そして、能舞台(のうぶたい)茶室等(ちゃしつなど)近世以来(きんせいいらい)芸術文化(げいじゅつぶんか)姿(すがた)もみることができることが()げられています。このすべてが旧高取邸(きゅうたかとりてい)魅力(みりょく)といえるものです。
旧高取邸(きゅうたかとりてい)には能舞台(のうぶたい)があるということですが、どうして(つく)られたのですか。

建物(たてもの)()てた、高取伊好氏(たかとりこれよしし)は、江戸時代(えどじだい)武士(ぶし)教養(きょうよう)をもった(ひと)であり、(とく)多久藩(たくはん)はそうした学問(がくもん)(さか)んであって、伊好氏(これよしし)武士(ぶし)のたしなみとしての(ちゃ)(のう)精通(せいつう)していたようです。

能舞台
能舞台(のうぶたい)
自分(じぶん)練習(れんしゅう)のために、(じつ)は、建物(たてもの)(なか)能舞台(のうぶたい)をこしらえたようですが、実際(じっさい)には、地元(じもと)(ひと)たち()び、(たの)しんだようです。邸宅(ていたく)新築祝(しんちくいわ)いの観能会(かんのうかい)3日(みっか)(つづ)いた壮大(そうだい)なものであったといわれます。能舞台(のうぶたい)仕掛(しか)けも(ふく)め、高取伊好氏(たかとりこれよしし)面目躍如(めんもくやくじょ)たるものです。
旧高取邸(きゅうたかとりてい)はお(にわ)綺麗(きれい)ですが、どんなところが()どころなのでしょうか。

旧高取邸(きゅうたかとりてい)(にわ)を、大名屋敷(だいみょうやしき)(ほか)明治期(めいじき)建物(たてもの)(にわ)としては、そんなに(おお)きいものではありません。しかし、いくつかの特徴(とくちょう)があります。そのひとつが、接客(せっきゃく)のための大広間棟(おおひろまとう)二階(にかい)から()景観(けいかん)です。(とお)く、唐津湾(からつわん)一望(いちぼう)できる空間(くうかん)は、まさに壮大(そうだい)借景(しゃっけい)としての工夫(くふう)がされたものです。

旧高取邸空撮
旧高取邸空撮
(きゅうたかとりていくうさつ)
また、(まつ)()()んだ姿(すがた)変化(へんか)()み、泉水周(せんすいまわ)りには石灯籠(いしどうろう)唐津焼(からつやき)置物(おきもの)(はい)されています。また、さりげなく()かれた庭石(にわいし)にも、江戸時代(えどじだい)石垣(いしがき)刻印(こくいん)矢跡(やあと)(のこ)されていたり、名護屋陣(なごやじん)(さい)旗竿石(はたざおいし)()ばれる(つくば)()られた(いし)利用(りよう)されるなど、高取伊好氏(たかとりこれよしし)(あそ)(ごころ)もみてとれるものですよ。
旧高取邸(きゅうたかとりてい)といえば、杉戸絵(すぎとえ)有名(ゆうめい)ですが、杉戸絵(すぎとえ)とそれを()いた画家(がか)はどんな(ひと)だったのですか。

邸宅内(ていたくない)には、26種類(しゅるい)、70枚近(まいちか)くの杉戸絵(すぎとえ)があります。杉戸絵(すぎとえ)とは、(すぎ)板戸(いたど)直接描(ちょくせつえが)かれた()()います。旧高取邸(きゅうたかとりてい)では、大広間棟(おおひろまとう)座敷周(ざしきまわ)りを中心(ちゅうしん)に、黒漆框(くろうるしかまち)(わく)ついた大型(おおがた)建具(たてぐ)に、(おお)()られるもので、襖仕立(ふすまじた)てとは(ちが)特徴(とくちょう)があります。()いた作者(さくしゃ)はその落款(らっかん)から、水野香圃(みずのこうほ)という絵師(えし)であることがわかります。

香圃(こうほ)京都(きょうと)円山四条派(まるやましじょうは)絵師(えし)で、ほかの作品(さくひん)はあまり()られていません。旧高取邸(きゅうたかとりてい)では、花鳥風月(かちょうふうげつ)中国(ちゅうごく)故事(こじ)(のう)狂言(きょうげん)題材(だいざい)にした様々(さまざま)()()きました。